今まで出会った多くの先生の中から掛け替えのない先生を一人選べと言われれば、迷わずこの人!という先生がいます。が、その前にボクがプロになるまでの生い立ちをお話したいと思います。
父が無類のクラシック好きだったため、父の意向で3才くらいから自分の意思ではなくピアノを習わされました。習わされたという表現がピッタリで、ピアノのレッスンが大嫌いでしたので、小学校の高学年でレッスンは辞めてしまいました。中学3年間はまったくピアノは弾きませんでしたが、ピアノのレッスンから解放さると、不思議と音楽が好きになりました。中3も高校受験や卒業式が迫ってきた頃、受験勉強の息抜きにFMのスイッチを入れた時に聞こえて来たのが、チック・コリアの弾くエレクトリック・ピアノでしたが、この世にこんなにカッコいい音楽=ピアノミュージックがあるのか、と一瞬にしてJAZZピアノの虜になってしまいました。
高校に進学した頃には、それまで埃をかぶっていたピアノを自分から弾き出したので、両親が驚いていましたが、もう自分の中では何とかJAZZピアノが弾けるようになりたくて、高1の夏休みに親の伝手でクラシックピアノの先生を紹介してもらいました。「あなたは受験?それとも趣味?うちは受験生しか教えないのよ」と先ず言われ、ここで引き下がっては元も子もないぞと「はい受験です」と嘘をついて習い始めました(笑)。3ヶ月くらい経った頃でした。「先生、ボク本当はJAZZピアノがやりたいんです」とふと本音を言ってしまった時の先生の反応が忘れらません。「あなたねえ、私も学生の頃何度もJAZZピアノに挑戦したわよ。でも出来なかった。あなたに出来る訳ないでしょう」と間髪入れずに言いかえされました。
昔のピアノの先生は厳しかった!それでも継続してピアノを習っているうちに、JAZZのサウンドに近い近現代のクラシックが好きになり、音大の作曲科ないしは楽理科を目指して和声法などの音楽理論を本格的に習ったりもしました。が結局そのなんとも言えないクラシック音楽界のスノッビーな雰囲気が好きになれず、東京に行けば何かがあるだろう、と大学は経済学部に進学しました。
息の詰まる音大受験勉強の反動からか、上京したての頃は麻雀に明け暮れて、音楽の事はほぼボクの中からなくなりかけていました。そんなある日、雀荘に併設されていたJAZZ喫茶にメンツが揃わなかったので、一人でふらっと入りました。シャワーのように降り注いで来たサウンドで、あの中3の時のような衝撃が再びボクの中に走りました。
そんな熱い思いが募ってきた渦中で「私の出会った先生」が故辛島文雄さんでした。辛島さんが30才、ボクが21才。当時日本を代表する憧れの若手JAZZピアニストでありながら、音楽家とはほど遠いスポーツマンのような風貌と人柄に、すっかり惚れ込んでしまいました。こういうタイプの人でもJAZZピアニストになれるのなら、オレにも出来るかも知れない、と直感したのが初対面の時の第一印象でした。
教えてもらったのは、池袋ヤマハでの一時間ほどのグループレッスンで、ボクの持ち時間は10分程度。そのため具体的な指導は極僅かでしたが、辛島さんの言動、ピアノを弾く姿など、彼の一挙手一投足から醸しだされるオーラをレッスンから持ち帰って来てそれを練習や音楽を探究するモチベーションにしていました。こうしてJAZZピアノに没頭すると、子供の頃にいやいや親に習わされた事、受験のための音楽理論などが無駄なくJAZZピアノの習得役にたってくるではありませんか!
当時の辛島さんの演奏スタイルには、ボクが最初に衝撃を受けたチック・コリアからの影響が随所にあり、それを身近に感じらたのもラッキーでした。彼もまたチックに憧れてJAZZピアノを始めた一人だったので、共通の憧れ=夢を抱き、その夢を実現していたところに強く惹かれました。JAZZは譜面に書かれている部分が少ないため、人から人へ世代から世代へ引き継ぎ伝承されていく、職人芸的な要素が極めて強い音楽です。憧れの師匠の技、美意識を真似し盗みとる。これを辛島さんとの関係で体験、実践することができたのです。
一度は音楽家になることを諦めたボクですが、辛島文雄さんとの出会いがあったらばこそ、極めて短期間でプロとして活動出来る迄のレベルに成れたのだと今でも確信し、感謝しています。